歴史の教科書の変化の話。鎌倉幕府は1192年じゃない?
さて、今回は歴史のお話でも。
歴史の教科書の内容が今と昔では違うなんて話はよくメディアでも取り上げられていますね。
鎌倉幕府は1192じゃないとか聖徳太子は実在しなかった!?というネタは頻出だと思いますが、何でそういわれているのかを何点かさくっと書いちゃいます。
大阪府堺市にある世界最大の古墳は「仁徳天皇陵」じゃない?
堺市にある仁徳天皇陵。数多ある古墳の中でも最大のもので、面積はピラミッドを上回り世界最大の墓となっています。
この古墳、最近では「大山(だいせん)古墳」「大仙古墳」「大仙陵古墳」と呼ぶことになっています。
これは、学界での呼称の変遷によって変わったパターンです。
最近、森浩一さんという名立たる考古学者がお亡くなりになったのですが、
考古学者・森浩一さん死去…天皇陵古墳を研究
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=82728
天皇陵古墳研究で知られ、古代史ブームを先導した考古学者で同志社大名誉教授の森浩一(もり・こういち)さんが6日、急性心不全で死去した。85歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は妻、淑子(としこ)さん。後日お別れの会を開く。天皇陵古墳を、古墳の形などをもとに検証。科学的根拠を欠いた被葬者の指定を批判して、仁徳天皇陵を「大山古墳」とするなど、地名を冠した呼び替えを提唱し、天皇陵研究に一石を投じた。
彼は天皇陵の調査を長年行ってきた方で、あの古墳が本当に仁徳天皇の墓なのか立証できないので仁徳天皇陵なる名称では呼べない!ということで、古墳を名付ける一般的な方法の地名+古墳での呼称を提唱(仁徳陵の場合、大仙町にあったので大仙古墳)したのです。
そもそも、仁徳天皇陵というのは宮内庁の名称なのですが、仁徳天皇が埋葬されている古墳なのかは考古学的には全く立証されていないのです。
というのも宮内庁は学者等への立ち入りを基本的に認めていないからです。これでは何もわかりませんね。
読売新聞の記者で考古学関連の取材を長年行ってきた矢澤高太郎氏の「天皇陵の謎」という本でも、筆者に対して以下のように語っていたそうです。
「被葬者が疑わしいのに、宮内庁の名称をそのまま使用するのは、学者としてあまりに無責任すぎるし、科学的な研究態度とは言えないでしょう。学問的な疑問を明確に示すためには、どうしてもこの表記でなくてはなりません。」
これが名称が変わった理由で、彼の主張が教科書にも反映されるようになってきたということですね。
そもそも、仁徳陵だけでなく他の古代天皇の陵墓指定が本当に正しいのかというのはかなり怪しいものです。
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/
上記リンクで全国の陵墓を紹介していますが、実在が疑わしいとされる天皇の陵墓もあります。そして指定の基となっているのは江戸時代の調査なのです。
森さんの著書やその他学者の研究を見ても、文武天皇までの古代天皇の陵墓の内、本当に陵墓の指定が間違いないと言えるのは片手で数えられるくらいなのです。(天智天皇・天武・持統天皇合葬の陵墓は確実)
↑明日香村にある天武・持統天皇の陵墓。明日香村に行ったときに見てきました。
「聖徳太子」はいなかった?
聖徳太子というのは後世に呼ばれた名前で、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」というのが生前呼ばれていた名前だそうです。ちなみに、自分の高校時代の教科書では両方書かれてました。
そもそも聖徳太子の功績は複数の人物のを全部彼の功績にしたという説があります。まあ普通に考えればそうであっても不思議じゃないですよね。古事記や日本書紀は体制側が出したものですし。
中には架空のスーパーな人を実在した厩戸皇子に当てはめただけという説を唱えている方もいます。
なので、いなかったというのは言いすぎかなーとは思います。がしかし、どちらにせよ彼の功績は盛られているといったところでしょう。まず、7人の話を同時に聴けたなんてどう考えてもネタでしょうしw
尚、上記の陵墓と関連した話で挙げますが、大阪府太子町にある聖徳太子の墓は森浩一さん曰く、正しいと考えて問題ないそうです。これも学者によって諸説あるんですがここでは省略します。
鎌倉幕府は1192年じゃない?
「いい国つくろう鎌倉幕府」。この語呂の良さで、年号を覚えている確率はきっと他の出来事よりかなり高いものですね。
ところが最近、1185年の説が出ていて、いい箱作ろうと教えている?そうです。
語呂の良さゆえに、教科書の内容の話題でもっとも取り上げられる事の多いのはこれですよね。
本当に学校で1185年で教えているのかは学生じゃないので分かりませんが・・・教科書については以下のような変遷があるそうです。時代が進むごとに記述の仕方が微妙に違ってきてますね。
中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立
http://www.asahi.com/edu/student/kyoukashow/TKY200802270241.html
東京書籍などによると、92年は源頼朝が征夷大将軍に就いた年。頼朝は85年、軍事・行政官「守護」や、税金集めなどをする「地頭」を任命する権利を得、幕府の制度を整えたのだという。
社会編集部副編集長の和田直久さんは「実質的に幕府が成立したのが85年。92年は征夷大将軍という『名』を得て名実ともに幕府が完成した年と考えられます」と話す。
この変化を東京書籍の教科書でたどると――、
1955年=1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府という政府をおいた
66年=1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、ここに鎌倉幕府による武家政治がかたちのうえでも整った
現在の06年版=頼朝は朝廷に強くせまり、国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭を置くことを認めさせ、鎌倉幕府を開いて武家政治を開始しました。……1192年に征夷大将軍に任じられた頼朝は……
「変化の背景を知ると、もっと歴史を好きになります」
これ、何で変わったのかと言えば、そもそも何を持って幕府成立とするかの見解が諸説あって統一されていないからです。それ故1192年と断定するのは間違っているのでは?という考えが大勢を占めてきたからですね。
つまり、そもそも幕府成立の年にははっきりした正解は今のところないってことです。
そもそも、源頼朝が「幕府の成立を宣言する!」と言ったわけではありませんから、この役職に就いたから・機構が整備されたから等の根拠で幕府成立の年を決めていたわけですね。
じゃあ、何故1192年成立と言われていたかというと、教科書の記述のように、頼朝が征夷大将軍に任命された年がこの年だからです。
しかし、幕府の根幹になっていた守護と地頭が設置されたのは? これもリンク記事のように1185年です。平家が壇ノ浦でほろんだのもこの年ですね。
さらに頼朝は、朝廷から東国政権の事実上の承認を1183年に得ています。
もっと言えば、頼朝が鎌倉入りして拠点を作り始めたのは1180年です。侍所もこの年に設置しました。
つまり、上記から分かるように、鎌倉幕府というのは1180年代から段階的に成立していって、1185年頃には実質的に、1192年に征夷大将軍に任命されたことで名実ともに成立したといった見方が適当ということですね。
成立の年に関する話はウィキペディアにも詳しくあるので見れば面白いと思います。
これらを見ると、ただ年号とか名前だけを覚えていく勉強法って意味あるのかななんて思ってきちゃいますよね。それよりも流れを覚えることが何より大事だと思いますね。歴史は一つの物語ですから。
この手の、歴史が変わったって話はまだまだあります。肖像画の人物がこれまで考えられていたのと違った人物だったとか(足利義政・源頼朝など)、政策に対する評価が違ってきているとか。ほんと、歴史は一筋縄ではいかないですね。だから好きなんですけどね。